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呉タイムマシン・プロジェクトのオリジナルプロダクツ
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広島県呉市の語られてこなかった歴史に迫る!
一般的に呉市の歴史は「明治以降の海軍によって始まった」とか、「海軍が来るまではのどかな農漁村だった」と言われていますが、実際には『呉町』という商人の町が存在し、文化人も行きかう奥深い営みがありました。
呉の文化の多くは、この『呉町』の消滅と共に消滅してしまいました。このプロジェクトは、そんな呉のアイデンティティーとプライドを取り戻す旅です。
道中、楽しみながら旅が出来るよう、呉出身の絵師、安楽雅志氏よりユーモアあふれるイラストをご提供いただきました。ややもすると硬い歴史の話ですが、楽しみながら悠久の旅に出たいと思います。
アイテム
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講演会
FAQ
貞享3(1686)年 に、宮原村の在郷市地域を呉町と呼ぶことを藩から認められた町方です。
呉町は、今でいう海上自衛隊総監部(かつての鎮守府)から、自衛隊教育隊、市民広場(かつての練兵場)の一帯を中心に存在しました。
周辺の図面と写真は残っていますが、なぜか呉町の中心部の資料は残されておらず、現在詳しい町の復元を試みております。
永暦元(1160)年の高野山文書に「安摩荘呉浦」と言う文章が確認できるのが最初です。
次に確認できているのが、元暦2(1185)年の石清水八幡宮文書で石清水八幡宮領「呉保」表記があります。
音戸の瀬戸の開削完成は、永万元(1165) 年とされています。
当時の技術では海を掘削して船を通すなど不可能という考えもあり、伝説とも言われているが、大型船が音戸の瀬戸を通過するようになったのは、確かにこの時期以降からである。
亀山神社が大宝3年(703)に入船山記念館の場所に鎮座されました。
なお、呉の市街地に鎮座される前、白鳳8年(679)に先に豊後国姫島から安芸国安芸郡栃原村甲手山に天降り、それから24年後に呉宮原村字亀山へ鎮座されたという由緒があります。
諸説ありますが、一説に『船木郷』と呼ばれていたのではないかと考えられており、現在確証を得るための研究を続けております。
呉が文献に現れるのは永暦元(1160)年です。それ以前この地域は、呉ではなく他の名称で呼ばれていたと考えられています。
諸説ありますが、一説に『船木郷』と呼ばれていたのではないかと考えられており、現在確証を得るための研究を続けております。
戦史に埋もれてしまった呉の歴史は、現在非常に確認しにくいものになっています。しかし小さな手掛かりを丁寧に繋いでいくと呉のダイナミックな営みが垣間見えます。確かに私たちの祖先は呉を発展させてきたようです。鎮守府が来庁したのも本当はただの片田舎だったからではなかったのかもしれません。